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アニメ映画「この世界の片隅に」を観た後、
「おばあちゃんといっしょにもう一度この映画を観てみたい」と言った息子1。
おばあちゃんというのは、すなわち私の母83歳。
広島の江田島で生まれ、戦後は市内へ移り住んだ。
原爆の話。
実は、娘の私は折り入って聞いたことがなかった。
友だちが原爆症で死んだことなどを断片的に聞かされていただけだった。
だが、平和教育を受け、
沖縄や広島に修学旅行に行った息子たちはおばあちゃんの話を聞きたがった。
夏休みの宿題だったかもしれない。
原爆投下の翌日、12歳だった母は、兄を捜しに祖母と広島市内に行ったという。
息子の質問から出てきた母の答えに私はびっくりしたのだった。
一体、どんな光景を母は体験したのか。

息子と母が新宿で映画を見終わったあと、私もお茶に合流して、話に加わった。

「原爆が落ちたとき、江田島に軍艦がいたのよ。
映画とは違って1隻だけだったけどね。
映画では3隻だったわよね。
半分沈みかけて傾いていた。
「利根」という軍艦よね。
終戦直後、私たちはそのまわりをぐるっと泳いだの。
泳ぎが得意でない子は途中で小舟に上がっていたけど、
私はぐるっと一度も上がらずに泳いだわよ。
(ちょっと自慢げ)
泳ぎながら見ると、海底には毛布みたいなものが敷かれていたわね。
結局、戦争に負けて、死体を引き上げる余力がなかったんだと思うわ。
だから、あの毛布の下には死体があったんじゃないかしら。
上で亡くなった人は埋葬されたけれどね」

「映画ではあまり出て来なかったけど、
原爆が落ちた日、
広島市内に出かけて生き残った人はみんな船で帰ってきて、
それで島で死んだのよね。
だから、あの日以後、島は死体を焼き続けて、
いつも髪の毛が焦げるようなにおいがしていたのよ。
においまでは映画には出て来なかったわね」

「あの頃は、親に死に別れて生き残った子どもを
自分の子どもとして育てた人が多かったんじゃないかしらね。
みんな優しかったからね」

「原爆の映画なんて観たくないと思ったけど、
いい映画だったわね」

などなどが母の言葉だったので
証言として記しておこうと思う。


「埋もれていこうとするものに光を当てたい」
と言ったのは、映像作家の奥間勝也氏だ。
『いま甦る幻の映画「ひろしま」〜受け継がれていく映画人の想い〜』の
ディレクターでもある。
原爆投下から8年目に、ひろしまの現実を伝えたくて、
2万人のエキストラが集まって作られた映画「ひろしま」。
映画会社の通達で突然、お蔵入りしてしまった映画の存在を伝えた
重厚なドキュメンタリーだ。

「この世界の片隅に」と「ひろしま」。
そして「ひろしま」を取り上げた奥間氏のドキュメンタリー映像。

方法はそれぞれ異なるけれど、
やっぱり伝えたかったのだと思う。
あの日のあの場所に生きていた「命」のこと。